UMの雑記帳

勉強日記とロールズとか政治学とか

【本の感想】山本圭『現代民主主義』

先日の宇野重規先生の『デモクラシーとは何か』につづきデモクラシー本の感想をざっくりと。

山本圭先生の『現代民主主義:指導者論から熟義、ポピュリズムまで』、中公新書、2021年。
宇野先生のを講読テキストにする予定だけど、こちらも副読本として参照予定。


序章「民主主義の世紀」
古代ギリシャから始まり、オーソドックスな叙述かと思えば、ルフォールも。現代の自由民主主義の危機の思想的視座からの導入として幅の広、わかりやすい。

第1章「指導者と民主主義」
この数年、ポピュリズムは学生に話をするときに念頭に置くことなのだけど、「指導者」論、もしくはリーダー、リーダーシップと言い換えてもいいだろうけど、この関連はあまり意識していなかったので、新たに視点を与えられた感じ。
指導者というより、政治家一般についてだが、佐々木毅『政治の精神』第2章の政治を「する」精神の議論などとあわせ考えてみたいなと。
内容関係ないけど、浅学ゆえに45頁の麾下の読み方をこれで知りました。

第2章「競争と多元主義
本章では、シュンペーター、ダール。ここもとてもわかりやすく整理されていてよかった。
ダールについては後ほどまた触れます。

第3章「参加民主主義」
イトマンの紹介がとても分かりやすかった。代表論についても触れるかなと思ったが、そうするとたぶん分かりにくかった。
かつてはよく読まれたが、専門家など一部マニア以外には、知る人ぞ知る状態になっているG. D. H. コールへの言及。
3節では、こちらも知る人ぞのマクファーソンの民主主義のモデル論が丁寧に取り上げられている。マクファーソン大好きなので善き哉。

第4章「熟議と闘技」
闘技民主主義論が、いま、ここで、もつ意義がよくわかった。くわえて最後のソクラテスの虻の例が非常に示唆的でしたね。

第5章「現代思想のなかの民主主義」
4章後半と同じく著者の専門分野。デリダランシエールラクラウら。
私なんかはやはりまだまだこういう議論に慣れないのだけど、前章までの議論とあわせて読んだとき、ある意味先入観のない学生はどう考えるか気になるところ。

終章「未来に手渡す遺産として」
デモクラシー(論)の重要な、新たな展開がいくつも議論され熟読すべきところ。
ここで挙げられた様々な議論について、著者やさらに若い優秀な人たちが新書で書いていくのでしょう(それを望みます)。
ここを序章とともに読んでからほかを読むのもいいかもしれない。


第2章のダールについてさらに少し感想を。さまざまな民主主義論をあつかっている、また新書であるので、以下の記述はあくまですべて「ないものねだり」です。

著者があとがきで「資本主義の問題もほとんどそっくり残されている」と書いているように関連する議論は控えめ。
資本主義の問題というとき、私はおもに不平等の問題をまず考える。

構成上、あるいは解釈上、シュンペーターとダールのつながりを重くみた(これ自体は妥当)結果であるかもしれないが、個人的には、ダールが政治的・経済的平等について、とくに長い晩年期に比較的啓蒙的な著作で熱心に語っていることを重視したい。

ダールはある意味で、規範理論家的な側面があるというか理念、理想を積極的に語ることがある。次第にそういう姿勢を強めていった。
無論、専門書ではないからというのはあるが、それを割り引いても特筆すべき重要性があると考えている。

あと著者の議論がそうだというのではなく、政治学(政治科学)の大家としてのダール像と、不平等を批判するダール像がなにか収まりが悪い感じに捉えられている向きもある気がする。基本前者ですよね。触れられるの。
私はあまりそう思わないので、いつかこういうブログとかでちゃんと言語化したいところでもある。

ダールが亡くなってはや7年、何か包括的研究あるのかなと思っているけど、なかなかしっかり調べる余裕なく今後勉強したいところ。
【追記 2018年にRoutledgeから論文集がでていて、値下げしてたので買いました。ほかも少しずつ調べてみる】

以下、手元の主要著作の議論をざっくり列挙。

ダールは、1956年のA Preface to Democratic Theory (邦訳『民主主義理論の基礎』)、拡大版1991年へ序文を寄せている(元は雑誌掲載)。
今回その序文の気になる箇所を調べてみたのだけど、そこでは、『理論』最終章で、

「私は『通常の』アメリカの政治過程を、国民の中のある活動的で正当な集団がら決定の過程の何らかの重要な段階でみずから効果的な発言ををなしうる高い確率があるもの、と規定した」

と書いたことは、特徴の描写としては大まかに正しいと今でも考えるが、不精確で不十分だとして、続く、一部の読者は完全に無視した一文に注意をむけさせている。

「『発言して納得され〔heard〕』されることは広い範囲の活動に及んでいるし、私にはその言葉を厳密に規定する意図はない。それぞれの集団がその結果にたいして平等な制動力をもっている、という意味ではない」(p.145、内山秀夫訳268頁)

このあとも立憲的ルールへの影響力の不平等の話はつづくが、しかしダールは、『理論』においては人種、教育、情報、社会経済的制度の不平等についてのomissionしたことを後悔していると書いている(拡大版の序文p.xix)。

1982年のDilemmas of Pluralist Democracyでは、最後の章で現代のデモクラシー(ポリアーキー)の欠陥のremedyとして、不平等の問題がとりあげられる。

1985年のA Preface to Economic Democracyで(邦訳『経済デモクラシー序説』)は企業内デモクラシーの可能性などを突っ込んで論じる。のちにこの点は悲観的になり放棄。

1989年のDemocracy and Its Criticsでも最後のパート2章で不平等の問題をあつかう。

不平等の高まりへの憂慮は、その後いっそう深まっていく。
1998年のOn Democracy(邦訳『デモクラシーとは何か』)では、デモクラシーと資本主義(ダールはmarket-capitalismと書く)の敵対的共存関係を論じる。

重要なのは、資本主義は、デモクラシーの発達に有利に働くが、十分に発達し、ある地点をこえるとそれが逆転し、資本主義がデモクラシーを脅かすことを指摘していること。
新世紀のデモクラシーの「性格と質」は、資本主義市場経済との緊張関係に私達がどのような答えをだすかに、「ほぼ全面的に決定されるであろう」としている。
政治的平等と本質的平等の議論、2015年の第2版に付されたシャピロによる序文と第17章も重要。

2001年のインタビュー、02年刊行原著はイタリア語、邦訳『ダール、デモクラシーを語る』。
15章の社会的公正をめぐる、第三の道への批判と富の割り当てについての考察。16章で政治的平等と制度化について。

2006年に刊行のOn Political Equality(邦訳『政治的平等とは何か』)では、山本『現代民主主義』第3章冒頭でも触れられるポート・ヒューロン宣言にも着目しつつ、政治的不平等の転換のためのシチズンシップ文化の可能性を論じている。

【調べもの】エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成立』

【調べもの】では、調べたこと、調べていることを書いていきます。

ここの典拠はこれでした、ここの参照指示は具体的にこんなこと言ってます、翻訳でたので調べてみた、みたいなことをつらつらとメモ。
それなりにコンテクスチャルで前提はしょるので、人によってはおもしろい、役に立つかもです。

本題のまえに愚痴を(内容とも関係あるんだけど)。非常勤先で調べ物したりしてるみなさんそうでしょうが、コロナ禍以降、図書館で調べものするのが非常にやりにくい。

非常勤先の図書館は再開し、いろいろ頑張ってはいるし、感染対策だから仕方ないけども、開館時間と形態は正直なところ使い物にならない。
予約で午前午後3時間ずつぐらい、検索パソコンしか使えずとか。


今年度はオンラインだったし、来年度は対面だとしても、わたしは週1なので、翌週の授業準備したらほとんど使える時間ないわけです。遠いし、普段はわざわざ行ける時間などない。

ロールズとついてるもの、ロールズが参照してる文献もなるべくは収集するけど、高いものやそれ以外は図書館ないととてもやってられないわけです。

職場から近いっちゃ近い、某大学図書館(卒業生)を使えたらよいのですが、卒業生は現在利用停止で残念。これは仕方がない。
使えるのは早くて22年度かな。ここが再開しないとなかなか厳しい。


本題。
2016年に邦訳が刊行された、エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成立』3巻(永井義雄訳)、法政大学出版局、2016年。原著は1901-04に刊行され、1995年に第2
版が刊行。

2019の後半に『正義論』を読み直していたらこの著作への言及をみて、ああそういえば邦訳がでてた、と非常勤先から借りてきたのでした。

最初の緊急事態宣言で自動延長されてたのですが、今回の緊急事態宣言では自動延長されないのでそろそろ返さないといけないので、とりあえず調べてみました。


ロールズは『正義論』第10節「諸制度と形式上の正義」において、「制度を構成するルールと戦略や格率との区別」を論じているのですが、ここでベンサムに言及し、彼の理論についての表現である、「諸利害を人為的に一致させること」という言い回しについて、アレヴィの『哲学的急進主義の成立』第1巻の仏語原著、pp. 20-24を参照するよう指示しています。
そして、スミスの見えざる手についても言及。

で、仏語原著を確認したいのですが、入っている某大図書館が使えるようになるまで調べるのはできない(さっきの愚痴につながる)

なお1928年刊行の英訳がありいくつかの版があります。ロールズも参照していたかも。(プラムナッツが序文をつけた版があり、ロールズはプラムナッツのほかの著作いくつか参照してますし、本書も知ってはいたと推測。プラムナッツはバーリンのあとのチチェレ講座担当者ですが、1975年に急死してしまった&ケンブリッジ学派に隠れて目立たないけどけっこう好きです)

ともあれ、仏語だと第1巻の20頁以降か。じゃあ最初のほうね、と読んでいくとけっこう面白いです。
扉の紹介や永井先生の解説(第3巻)を読むとわかりますが、アレヴィさん、すごい人なんです。
この翻訳の解説は、関東学院大学の紀要を改訂増補したもので、元論文は公開されていますので興味ある方は↓
https://kgulibrary.kanto-gakuin.ac.jp/?page_id=15

そして読み進めていくと、ロールズが参照指示したのは22-31頁あたりかなという感じです。以下のような記述がでてきました。前後の文脈ははしょります。

ベンサムは後に議論をさらにもっと先に進め、そして利己的動機の支配的なことを立証するために、人類の存続を論拠とする。もし各個人が自己の正当な利益を顧みないで隣人の利益を促進することに没頭したら、人類は一瞬たりとも生きながらえることができようか。優れて逆説的性格を示してはいるがそれにもかかわらず世に受けいれられるようになることを約束されているこの命題は、利害の自然的一致の命題と呼ぶことができる」27-28頁

「個人は、大体において、あるいはまったくのところ利己主義者であるといつでも認められるが、それにもかかわらず、利己心の調和が、即座かあるいは徐々かの違いはあれど、否定されることもありうる。だから、諸個人の利害の中で個人の利害と全体の利害とを一致させなければならないと言われるし、またこの一致を実現するのは立法者の仕事であると言われる。そうしてこれは、利害の人為的一致の原理と呼ばれていい」30頁

ベンサムが初めて公益性の原理を採用するのは、この最後の形式においてであり。彼は後に、ときとして利害の融合の原理を使用することがある。彼は後に、政治経済学において、アダム・スミスの思想とともに利害の自然的一致の原理を採用することがある。しかし、彼の理論において有益性の原理がまとう素朴かつ原初の形態は、利害の自然的一致の原理である」30-31頁

『正義論』の当該段落とあわせて読むと、ロールズの叙述が俄然おもしろくなってきます。正直、ここと節全体、これまでは個人的にあまり興味ひかなかったので。なんか説明してんなーと。

あと、それよりもはるかに注目に値すると思うのは「利害の融合」や、それに類似した言い回しがでてくることです
これがconflationにあたるもの、その着想の基かはわかりませんが、そうなら言わずもがな、いろいろわかってきますね。

あとロールズのスミス解釈というか軽視、雑な扱い?(cf. D. D. Rafael, Impartial Spectator)の理由はこの本に由来しているのかもとも思いました。第三章ではスミスとベンサムについて詳しく論じているのでそこからなのかな?とか。
このあたりは後々機会があればさらに調べていきたいと思います。

半端ですがこのへんで。

reasonableの訳語について

きょうは適当な雑感。

先日、ロールズの言葉づかいについて着目した、非常にわかりやすくかつ鋭いネットの論考を読んで、ああこういうのは大事だなあと思った。

先般、機会をいただいて初学者むけの文章を書いたのだけど、いろいろ余裕がなくて、構成もふくめて、言葉の変換というかそういうのが全然できなかったなあと反省しきり。
そういうこともあり、たびたび考えたりするreasonableの訳語について改めて雑にまとめてみる。

reasonableは、ご承知のようにある時期からのロールズにおける頻出ワード。

適理的、道理的というのが使われがちで、字数を気にしなければならない場合はそれでよいですが(想定読者は専門的に学ぶ人だし)、基本的にはやはり「道理にかなった」かなと。
合理的との明確な区別のために「道」をちゃんとつけておきたい。これは個人的にはこだわりポイント。ちゃんと全部やってるか分かんないけど。

reasonableはいろいろなものにつく。

reasonable favorable condition
適度に好都合な条件。
『再説』邦訳ではこれ。内容をみればこれでよい。適度、適当は便利な言葉である。

fact of reasonable pluralism
穏当な、穏やかな、多元性の事実が定着していると思う。

ただ、あまり多元性といってもあまりキツくはないよね~というニュアンスがかなり強くなるとすれば、また初学者にそういう理解を強めるばかりだと、ちとまずい。

包括的ドクトリン、世界観、生き方の違いのなかで、四苦八苦、苦心惨憺、考えて会話して妥協、譲り合いもして、なんとか合意、協働の基盤を見いだして、さらに...とreason(ゴリゴリの意味の理性ではなくて)を駆使してなんとかかんとかやっていける、そういう能力が私たちにはある。
また、終わりそうのない対立や不正義をまえにして諦めなくていい、希望があるんです、とのロールズの思いは著作の端々にみえます 。
初出や、重要なとこは〔 〕で補う...とか? たしか某先生がどこかで書いた文章でそうしたとこあったような。探そう。

あと多元「主義」の「事実」って、言葉として変ですよねと言われた方がいらして、確かにと。ジャーゴンに慣れてはいけないですね。
たしかそのとき「多元状態の事実」とか出た気がしたが、やっぱり基本的にあてる訳後としてはうーんとも。こだわる必要あるかわからないけど、ismついてるし。「事実」はほかに訳しようがあるのかとか。

ともあれ、たんにある状況、環境を描写しているだけではなく、それへの私たちの「かまえ」をも含んだもの。少なくともそう用いているとこは工夫を考える必要。

reasonable citizen, people
市民や人が道理にかなうという言い方は、私の感覚、知っている範囲の日本語ではしないので違和感。

「道理をわきまえた」「分別のある」などを使っている人もいて、なるほど!と思ってたけど、これは完全に好みの問題なんだけど、「わきまえた」「分別がある」が偉そうだし感じ悪いので、何かいいのをその都度充てたいところだけど、いいのはなかなか思いつかない。
まあ、ロールズの議論の文脈はあきらかなので、ロールズ偉そう...と思う人がいる心配はないだろうけども。

他にもありますが、まあよくよく考えなきゃいけないということですね。

【本の感想】宇野重規『民主主義とは何か』

やる気がなくならないうちに投稿。

宇野重規先生の『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2020年)を読み返している。
今のところ来年度の初年次ゼミでは、デモクラシーはこれを読む予定。

デモクラシーを学ぶには、歴史と制度と理念をバランスよく扱っていると、政治学科の一年生を相手にしている立場としてはありがたい。
どのコース、ゼミに進むせよ、いずれについてもある程度は知っといてほしいので。

歴史的なアプローチをとりつつ「今」にもつながり、制度と理念の双方をみすえ、文章も読みやすく、学生たちとどう読めるか今から楽しみにしているところです。

ロールズ周辺やってる人間として注目したのは、ロールズへの評価がこれまでの著作と比べて好意的であること。
本書におけるロールズの位置づけからくるのか(第4章の3において、アーレントとともに参加と平等の回復を目指してで登場)、別の理由なのかはまだよく分かってないですが。

『民主主義のつくり方』(筑摩書房、2013年)や「ロールズにおける善と正義」、大瀧雅之・宇野重規・加藤晋編『社会科学における正義と善 ロールズ「正義論」を超えて』(東京大学出版会、2015年)では、ロールズの「経済学的思考」、原初状態における「個人」のモデルについての検討はかなり批判的で(反発をともないながらも)とても考えさせられたのでした。
最近再開した勉強会で読んでいるロールズの思想形成研究を読みつつ、再検討したいところです。

なおロールズは、1975年の論文「善性への公正さ」においてS. ルークスによる「抽象的個人主義」批判に反論していたり、あと『正義論』第41節は比較的あまり読まれないとこかなと思いますが、大事なこと言ってます。
そのうえで、ロールズの理論枠組みやモデルをどう評価するかですね。

ともあれ『民主主義とは何か』においては、反省的均衡が民主主義論としてもつ意義を、正義の原理を「一人ひとりの個人が自らのものとしていく」(214頁)いとなみとして、「正義感覚」の議論とともに重要視しています。
結びでは再びロールズに言及し、しくみ・制度としての民主主義、終わりなき過程、理念としての民主主義の「両者を不断に結びつけていくこと」(全部傍点)が大事だと力説されています。
他にも、二原理の関係や財産所有の民主主義などにも言及されてますが、そうそう、そこ! 倫理学方法論にとどまらない、反省的均衡がもつ私たちの日常の思考とのつながり!と膝を叩きながら読んだのでした。