UMの雑記帳

ロールズとか政治学とか

フリーデン『リベラリズムとは何か』①ほかの翻訳、関連文献紹介

先日刊行された、マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』、山岡龍一監訳、寺尾範野・森達也訳、ちくま学芸文庫
購入したけどしっかり読む時間がなかなかとれず。とりあえず関連文献紹介だけして、1章ずつ読んだら追記していきます。
原著が出たときに読み、翻訳を期待してましたが、まさか文庫版で出してもらえるとはありがたいですね。
日本語で読める自由主義/リベラリズムのコンパクトな概説「本」はながらく「ちょうどいい」のがなかったと思います。価格、入手しやすさもふくめ。

ジョン・グレイ『自由主義』(初版の訳)昭和堂
藤原保信『自由主義の再検討』、岩波新書
などがありますが、グレイはひとつの概説としてよいとして、藤原のは、とくに後半にかけての展開に注釈が必要ではないかと。
法哲学では井上達夫『自由の秩序』岩波書店がありますが、概説を意図した構成、バランスではなく、またクセがあるので、とりあえずこれ~と紹介、薦めるわけにもいかず。
フリーデンのは読み通し、消化するのそれなりに大変かもしれないが、歴史的展開と現在のリベラリズムの幅、重層性をきちんと把握するために非常にすぐれたものであると思います。

なおフリーデンはおなじA Very Short IntroductionシリーズからIdeologyも出しているのでこちらも翻訳されたらうれしいですね。

きょうは、すでに翻訳のあるものとフリーデンの研究のうちイデオロギー研究に関連した文献を紹介。

フリーデンの翻訳としては知る限り本書が3つめ。ほかにあれば教えてください。
1つは『権利』玉木秀敏・平井亮輔訳、昭和堂、1992年(原著1991年)。
リベラリズム』同様、すぐれた交通整理という感じで、つまみ食いしかしてなかったことを反省。

序文「権利について提出された論拠が真か否かということより、権利の概念が政治言語において果たす役割をイデオロギー的に解読することに重点を置いている。本書の目的は、権利理論を構築することではなく、権利理論を構築する人々の第一次的な思考活動を素材として使用し第二次的に分析することである。このような分析は政治理論の果たすべき主要な任務である」

2つめは「政治的に考えることと政治について考えること:言語、解釈、イデオロギー」(蛭田圭訳)、
デイヴィッド・レオポルド、マーク・スティアーズ編『政治理論入門:方法とアプローチ』山岡龍一・松元雅和監訳、慶應義塾大学出版会、2011年(原著2008年)。
イデオロギーは、哲学者であれ文化的エリートの一員であれ、素晴らしい知的能力ないし修辞的能力のある個人によって言葉にされるかもしれない。しかし、グラムシが主張した通り、イデオロギーは「大衆」ないし今日では一般公衆と呼ばれるかもしれない人々が社会的世界について抱く閃きや見解の結果でもある。
こうした、より広い非エリート主義的な社会的、政治的思考の諸領域を巻き込むことは、それ自体で価値ある学問的実践であり、政治思想研究を「民主化すること」である。
イデオロギー研究は、良質な思考を真剣にとらえるのと同じくらい、政治について普通に平均的に考えることを真剣にとらえるような政治思想分析の第一級の実例である」(pp. 210-11/訳305頁)

フリーデンについては、『リベラリズムとは何か』の訳者の1人で解説を執筆された寺尾範野先生が、「イデオロギー研究は「政治における正しさ」について何をいいうるか:マイケル・フリーデンの諸研究を通して」を、田畑真一・玉手慎太郎・山本圭編『政治において正しいとはどういうことか:ポスト基礎付け主義と規範の行方』、勁草書房、2019年に書かれていますので、フリーデンの理論的営為の一面を知りたいかたにはおすすめします。

イデオロギーについては、たとえば
テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』大橋洋一訳、平凡社ライブラリー、1999年。
冒頭、イデオロギーの16の意味・用法を列挙しています。とくにフーコー的な権力-イデオロギーの見方への異論は参考になりました。
1、2、7章だけでも読んでおく価値のある本。

政治思想系で手元にあるのは2つ。
ジョン・プラムナッツ『イデオロギー:その意味と政治的効用』田中治男訳、福村書店、1972年(原著1970年)。
かなり時代を感じる構成ですが、だからこその意義もある。6章「イデオロギーの政治的効用」はこの数年の事象の分析にも有用かもしれない。

アンドルー・ヴィンセント『現代の政治イデオロギー』重森臣広監訳、昭和堂、1998年。
講義をもとにした、おもに8つのイデオロギー「ズ」を論じており、第1章ではイデオロギー自体について検討。
「…われわれはイデオロギーを現実と世界の構想であるとみる。われわれはこうした構想から完全に身をひくことなどできないし。各構想を厳格な第三者として比較することもできない。われわれにできることは、せいぜい複数の世界の比較である。イデオロギーは、なにか客観的で実在的なものとならんで存在するのではない。むしろ、イデオロギーは、現実世界の巧妙な構成要素である。
・・・イデオロギーの研究そのものは、われわれの理解のスキームを別のスキームと自覚的にむすびつける試みである」29頁。
2009年には第3版がでており、どのようなアップデートか気になるところ。

ロールズ『再説』読書会メモ1.1

先日から某大の修士の方と『公正としての正義:再説』を読む会をはじめたので備忘録がてらつらつらとメモを。

修論にむけてロールズのとくに社会的協働の理念とその関連部分をということなので、『再説』第1部を『正義論』や『政治的リベラリズム』等とあわせじっくり読むことにしました。
公正な協働のシステムとしての社会は、ロールズの用いる根底的理念fundamental ideasの第1のものなので、理念群を詳しく論じている『再説』第1部を他の著作と照らし合わせながら“きっちり”読むことは王道かつ近道だと思います。

これでロールズの「思想世界」の骨格はよくわかるでしょう。第2部以降はペースをあげる。あげないと修論間に合わないだろうし。
私は調べ残してること、関連文献、積ん読を読んだりといい機会をいただきました。
第1部は1節ずつ、原文と対照しつつ、読み上げ、解説、議論とやっているが色々新たな発見があります。


1. 政治哲学の4つの役割
1.1 【政治哲学の実践的役割】

まず冒頭の、政治哲学がもつ「社会の公共的な政治文化」の一部分としての役割というところに注目。

立憲デモクラシー(ロールズはデモクラシーを色々 exchangeableに表現している)の社会における政治哲学は、市民のだれもが行う思考の営みであり、専門家が(ひとつの体系としての)「理論」として行う営みより幅のひろいもの、あるいはそれを含むが、その場合でも、専門家は市民に対し「理論」の特権性、優位性を言い立てえないものとしての政治哲学という、ひとつの見方。
この点についてはPP序論の「聴衆audience」「信憑性credentials」の話、PLの政治哲学と専門家への言及などを参照。

政治哲学は、基本的にはふだんは直接に政治には参入しない「背景をなす文化」であるが、一部の古典的テクストは「公共的政治文化」に属し、政治を深く問いなおすさいに引用、参照されるなど、「公共的知恵の一部となり、社会の基本をなす政治的理念の原資・宝庫fund」でもある(PP序論)。
憲法やその解釈の文書、本(JF, §7)、さらに日々ふれる文章(にふくまれる表現)なども含む幅の広いもの。

政治的対立と秩序問題を解決する必要から生じてくる実践的役割。宗教改革とその余波である宗教戦争
ロールズはこれをリベラリズムの歴史的起源のひとつとするが、さらに別の起源を含めた複雑な過程でもある(あくまで哲学者の思弁的な歴史叙述としている)。
PL, MPでは第2には中央集権的な、立憲的なしくみをそなえた近代国家の発展を、第3には、17世紀からの近代科学の発展をあげている。

PP序論では、第3の部分は「労働者階級が勝利して、デモクラシーと多数者支配を獲得したこと」をあげており、こちらの第3の起源をふまえたならば、リベラリズムの複数の起源とその展開、発展、定着と、正義の二原理とその内容、優先関係との関係性に留意するべき。

そしてロールズ自身の認識では、リベラリズムの歴史は、いまだ進展中の、しかも現時点においても不十分な達成でしかなく、「民主的正義」はいまだ遠いという認識にも留意すること(「現状status quo」の擁護ではなく、批判のためのリベラリズム、あるいは政治哲学。これは後の第3、第4の役割、またマルクスイデオロギー批判との関連で重要)

ロックの寛容書簡、モンテスキューの法の精神の見解は「長い前史」をもつ。ロールズがさす「長い前史」の具体的内容は、PLであげているJ. W. アレンの『16世紀の政治思想史』、Q. スキナー『現代政治思想の基礎』第3部などを参照。
とくにボダン(の七賢人対話)の影響が明らかになったいま、その参照箇所と関連する歴史的なことを考えるのは重要な課題。とくにアレンの本はロールズが寛容の“はじまり”と初期の議論に何を見ていたかの参考になる。

不承不承の寛容からしだいに発展して、多元主義が歴史的な積み重ねのなかで原理、実践・慣行として根づいていく。
ほかの箇所では、18、19世紀のテクストとしてヒューム「言論・出版の自由について」A-P版の末尾(小松訳だと注の4)、ヘーゲル『法の哲学』270節末尾などをあげている(PL序論など)。

つぎの部分はバーリン『自由論』にかなりおっていると思われる(邦訳378-79頁)。
「ひとつの哲学的ドクトリンとして、リベラリズムはその起源を宗教的寛容をめぐる様々な議論の発展があった16、17世紀にもつ。19世紀において、リベラルなドクトリンがコンスタン、トクヴィル、ミルたちによって、近代国家の文脈において喫緊不可欠とみなしたものを主要な要素として形成された」
(PL, 1982年時点の記述)

アメリカの例では、フェデラリストと反フェデラリストの論争、南北戦争へといたる奴隷制をめぐる論争をあげている。後者についてはPL第1講を参照。

「深遠で長期にわたる論争が、道理にかなった正当化という考え方ideaを、認識論や形而上学の問題としててはなく、実践的な問題とする端緒となっている。…私たちの共有された政治についての了解事項political understandingsが瓦解し、同じく私たち自身〔各々〕の内面でも分裂してしまうとき、政治哲学を求めるのである。アレクサンダー・スティーヴンズが、自然権という抽象的なものに訴えるリンカーンの姿勢を拒絶し、次のように彼に応えたことを思いうかべるなら、このことがわかる。『北部は奴隷制度の問題にかんして、南部において共有された政治的な了解事項を尊重せねばならない』。疑いなく、この発言に対する回答は政治哲学に通じていく」(PL, 44-45)

これらの例をふまえ、3段落めの「実践的役割」を吟味する。また「その外観にもかかわらず」、「基礎が見いだせないとしても」、「哲学的・道徳的意見の相違を、少なくとも狭めることはおそらく可能」(意見の相違は解消されえない、目指さない)という記述の重大性。

喫緊だが、目標としては控えめともいえる「実践的」役割だが、現代の立憲的デモクラシーにおいては、ホッブズ~らお歴々とはまったく違う情況なのはいうまでもない。

ロールズがみすえている情況とは、この2世紀の民主主義思想の伝統における、民主的な市民たる地位democratic citizenship にとっての自由と平等にとり適切な基本的諸制度とはなにかについて、公共的合意がないという現状。
たとえば、コンスタンのいう「近代人の自由」に連なるロック的伝統と、「古代人の自由」を強調するルソー的伝統との対立があるが、この過度に様式化されたover stylized対比に、意見の対立分裂の深刻さが見てとれるという。

なお、ロールズにおけるこの2つの伝統については、ひとつは、第1原理において、政治的諸自由のみが公正な価値を要請されること(無論、第2原理の後ろ楯なしでは持続しえない)の議論をみるとよい。あとハーバーマスへの応答の3、4節。
どちらかの伝統、とりわけ、いわゆるロック的伝統のほうが強い?という見方に慎重になること。複雑さ、多面性。

ロールズは、2つの対立(ほかにもあるだろうけど)は、たんに利害関心の相違にではなく、制度の作動についての政治、経済、社会理論の相違、公共政策の帰結についての相違にも根差しているという。
ロールズが目をむけるのは、別の根源である、自由と平等の要求するもの、順序づけ、比較衡量、正当化についての哲学的、道徳的なドクトリン。
こちらの根源は、先のものと並立しているものでもあり、またそれら理論や理解の根底にある、個々人、勢力などが抱いているもの、と見てもいいかもしれない。

ロールズ入門、概説の翻訳書

間があいてしまいました。サクッと書いて出して、後から改訂、追記する感じでなるべく更新を増やしたいと思います。

今日はロールズ概説書、入門書の翻訳について。残念ながら翻訳してます、出ますという話ではないです。
今月末から某大の院生の方と社会的協働を軸にして、ロールズのテクストを読んでいくので、頭を整理するためにまず入門書をいろいろひっくり返してみたのでした。
関連性が新たに見えてきたりしますのでね。

ロールズ関係の翻訳少ないなあと思うのですが、とくに入門書の少なさはもったいないよなあと思います。
たまにツイッター観察したりしても、重要だなあと思うわけです。

そういう問題意識はあったけど、しばらく前からどうでもいいかな~期に入っていました。
私の場合、専門分野について学生と読む機会はないし(1年生)、英語なら当然読みますし。
(前にやったらどうですか?って言われたことあったけど、私のような立場だとそもそもどうやって?みたいに思った)

学術出版の厳しい状況というだけでなく、流れてくる情報をみると、どうやら翻訳は「業績」とは認められにくいようですね。
もちろん、やられている優秀な「若手」の方もおられますけど、業績にもなればさらによいですよね。
私はそういうの気にしなくなっちゃったので、詳しくは知らないけど。

まあ手間は大変なんてもんじゃないですね。あと出したら致命的な誤訳はともかく、ほかもいろいろ言われるわけだし(言われてかまわないと思いますが)。

某翻訳の検討会に参加してみてその一端を垣間見ましたが、いや~大変だなと。
個人的な勉強として訳語の一覧表や邦訳のある文献、参照ページ一覧作ったりとかも含め、自分の読解のために非常に得るものがありましたが、自分でやるとなったらもうね。

ではいくつか紹介。

クカサス&ペティットロールズ:「正義論」とその批判者たち』(嶋津格・山田八千子訳)、勁草書房、1996年。
原著はPolity, 1990年ですが、30年以上たった今でも、『正義論』とその後の批判、70~80年代のロールズの検討など、十分に読む価値があります。
あと本書自体が、ロールズ研究「史」上の著作となり、今ふたたび検討されるべき論点、ヒントをたくさん提示してくれています。

Polityからは2010年に Sebastiano Maffettone, Rawls: An Introduction が出ているので、ぜひ翻訳をだして「アップデート」されてほしいですね。
いわゆる「転回」についても1章割いています。

Catharine Audard, Rawls, Acumen, 2007.
『正義論』『政治的リベラリズム』のフランス語訳を担ったオダール渾身の一冊。
これを読まずして、というぐらいおすすめです。

Percy Lehning, Rawls: An Introduction, Cambridge University Press, 2009.
これも体系の内的関連をおさえた非常によいもの。

Donald Moon, John Rawls: Liberalism and the Challenges of Late Modernity, 2014.
これは入門書ではないのですが、『正義論』ではなく『政治的リベラリズム』や『再説』などを起点として、ロールズの体系を読み解いていく優れたもの。
公正としての正義の変化、発展と、その基底にあるものがわかり、『正義論』の理解にも資するものです。

『正義論』に特化した入門書もあります。

Jon Mandle, Rawls′s A Theory of Justice: An Introduction, 2009.
各パートごとに検討、つまり第3部にもしっかりとフォーカス。

Frank Lovett, Rawls′s A Theory of Justice: A Reader's Guide, Continuum, 2011.
これが一番簡明なガイドですね。まさに『正義論』を読むガイドとして初学者にもおすすめです。

Introductionと日本の入門・概説書ってだいぶ違うのであれですが、日本の研究者のものも紹介。

川本隆史ロールズ』、講談社、1997年、新装版2005年。
先日再開した勉強会で読み始めた、ガリシャンカのロールズ思想形成史本を読んでいると、ヴィトゲンシュタイン『哲学探求』の影響がアーカイブ資料もふまえ検討されていました。
川本先生の本は97年ですから、当然アーカイブ資料使ってないわけですが、この点を入門書でも重要なものとして丁寧にとりあげていて、『正義論』へと至るロールズの丹念な読解だと、改めて。
シリーズと同じように、(できれば増補改訂して)学術文庫やちくま学芸文庫にいれて欲しいですね。

仲正昌樹『いまこそロールズに学べ』、春秋社、2013年、新装版2020年。
さすがの整理ですが、転回については…という感じですね。

盛山和夫リベラリズムとは何か』、勁草書房、2006年。
大学院受験のために一生懸命読んだ記憶が。「入門書」ではなく、また専門書でもない、噛みごたえのある本。
難しめ、1冊目に読む本ではないとは思いますが挑戦する価値がありますね。

あと複数人による教科書で、分配的正義の議論が中心ですが、宇佐美誠・児玉聡・井上彰・松元雅和『正義論 ベーシックスからフロンティアまで』、法律文化社、2019年の第1部もよいのではないでしょうか。

【文献紹介】John Perry, The Pretenses of Loyalty

【文献紹介】ではロールズ研究を中心にいろいろ紹介していく予定です。
あと翻訳あるけど、ちょっと論文検索したぐらいだと出てこない、本に収録された読まれるべき章、論文とか。

気になるとこだけ、自分のためのメモをかねての、丁寧な紹介ではないので悪しからず。

今回紹介するのは John Perry, The Pretenses of Loyalty: Locke, Liberal Theory, and American Political Theology, Oxford University Press, 2011.
借りては読まずに返しを数回。今回ようやくアレして返却するのでひとまず少し目を通しました。

いま勉強会でロールズの思想形成と影響についての研究書を読んでいて、それにも参考になりそうな議論がたくさん。

本書はロック研究でもありますが、ロックはもちろん近現代アメリカとその周辺分野についても知らないとちゃんと分からなそう。

序論「ロールズアンティゴネー」は、ロールズの死後見つかった晩年期の遺稿「私の宗教(観)について」における信仰喪失の話から始まる。
そしてヒトラー暗殺についてのジレンマ。おなじみボンヘッファーの議論。

ちなみにロールズは『万民の法』では、 1933年の時点のボンヘッファーについては厳しいコメントをしています。
「宗教」はこれもあわせて読むと、ロールズが何を問題としているかより深くわかる(はず)。執筆時期も近いしそれも意識します。
究極的事態におけるジレンマととるべき行為という話なら、別にロールズに聞くまでもなし、これまでたくさん議論されてきたわけで。
ロールズの理論、哲学をふまえて考えるなら、そのジレンマと、そんな事態になる前にどうしなきゃいけなかったのかということを念頭にないと。
というか私はそういうこと考えたい、価値的だよねというだけですが。公刊意図して書いた著作ではそっちの話をしてるわけです。

オッと思ったのは、アーレントの議論と響きあってるね、という指摘。Oliver O’donovanの講義におけるアーレントへの言及がなんたらと。

かつてロールズの遺稿の紹介論文書いたときも思って、『革命について』を少し入れたのでした。やっぱりそうよね、と。
昔の私すごい冴えてる。ただ、オドノヴァンさんの講義録、現在は入手困難なのですね。残念。

本書の方法論についてのコメントも参考になった。マッキンタイアの『美徳なき時代』の序論、シュトラウスとスキナーへのコメントなど。

ロールズが言及されるのはおもに4つの章。
ロールズ自体が章の主題、全体で綿密に検討しているわけではなく、現代リベラリズムを決定づけた代表としていろいろ引き合いにだされる感じに。
序論でロールズの遺稿から縷々論じているのは、舞台設定なわけですね。

このパターンだと、その引用だけ見たらロールズそう言ってるけど、ちゃんと参照すべき関連する議論もみたら、そうは言ってないですよ式の応答ができることが多いのですが、より広いコンテクスト、ロールズとは別の系譜や伝統をもちゃんとみる必要がある議論のしかたをしている。
ウォーリンやシェーファー、ベイナーなどのロールズ批判に似ているかも。

先日ウォーリン『政治とヴィジョン』第2部のロールズ~からウォーリンが自説を全面展開する2章を読み直したら、非常にいまここの現実政治の見方にも示唆的でした。
これもより抽象的とはいえそういう本かな。ロックのところが分からないと意味ないので骨が折れそうですが、時間かけて調べながら読んでいきます。

【本の感想】山本圭『現代民主主義』

先日の宇野重規先生の『デモクラシーとは何か』につづきデモクラシー本の感想をざっくりと。

山本圭先生の『現代民主主義:指導者論から熟義、ポピュリズムまで』、中公新書、2021年。
宇野先生のを講読テキストにする予定だけど、こちらも副読本として参照予定。


序章「民主主義の世紀」
古代ギリシャから始まり、オーソドックスな叙述かと思えば、ルフォールも。現代の自由民主主義の危機の思想的視座からの導入として幅の広、わかりやすい。

第1章「指導者と民主主義」
この数年、ポピュリズムは学生に話をするときに念頭に置くことなのだけど、「指導者」論、もしくはリーダー、リーダーシップと言い換えてもいいだろうけど、この関連はあまり意識していなかったので、新たに視点を与えられた感じ。
指導者というより、政治家一般についてだが、佐々木毅『政治の精神』第2章の政治を「する」精神の議論などとあわせ考えてみたいなと。
内容関係ないけど、浅学ゆえに45頁の麾下の読み方をこれで知りました。

第2章「競争と多元主義
本章では、シュンペーター、ダール。ここもとてもわかりやすく整理されていてよかった。
ダールについては後ほどまた触れます。

第3章「参加民主主義」
イトマンの紹介がとても分かりやすかった。代表論についても触れるかなと思ったが、そうするとたぶん分かりにくかった。
かつてはよく読まれたが、専門家など一部マニア以外には、知る人ぞ知る状態になっているG. D. H. コールへの言及。
3節では、こちらも知る人ぞのマクファーソンの民主主義のモデル論が丁寧に取り上げられている。マクファーソン大好きなので善き哉。

第4章「熟議と闘技」
闘技民主主義論が、いま、ここで、もつ意義がよくわかった。くわえて最後のソクラテスの虻の例が非常に示唆的でしたね。

第5章「現代思想のなかの民主主義」
4章後半と同じく著者の専門分野。デリダランシエールラクラウら。
私なんかはやはりまだまだこういう議論に慣れないのだけど、前章までの議論とあわせて読んだとき、ある意味先入観のない学生はどう考えるか気になるところ。

終章「未来に手渡す遺産として」
デモクラシー(論)の重要な、新たな展開がいくつも議論され熟読すべきところ。
ここで挙げられた様々な議論について、著者やさらに若い優秀な人たちが新書で書いていくのでしょう(それを望みます)。
ここを序章とともに読んでからほかを読むのもいいかもしれない。


第2章のダールについてさらに少し感想を。さまざまな民主主義論をあつかっている、また新書であるので、以下の記述はあくまですべて「ないものねだり」です。

著者があとがきで「資本主義の問題もほとんどそっくり残されている」と書いているように関連する議論は控えめ。
資本主義の問題というとき、私はおもに不平等の問題をまず考える。

構成上、あるいは解釈上、シュンペーターとダールのつながりを重くみた(これ自体は妥当)結果であるかもしれないが、個人的には、ダールが政治的・経済的平等について、とくに長い晩年期に比較的啓蒙的な著作で熱心に語っていることを重視したい。

ダールはある意味で、規範理論家的な側面があるというか理念、理想を積極的に語ることがある。次第にそういう姿勢を強めていった。
無論、専門書ではないからというのはあるが、それを割り引いても特筆すべき重要性があると考えている。

あと著者の議論がそうだというのではなく、政治学(政治科学)の大家としてのダール像と、不平等を批判するダール像がなにか収まりが悪い感じに捉えられている向きもある気がする。基本前者ですよね。触れられるの。
私はあまりそう思わないので、いつかこういうブログとかでちゃんと言語化したいところでもある。

ダールが亡くなってはや7年、何か包括的研究あるのかなと思っているけど、なかなかしっかり調べる余裕なく今後勉強したいところ。
【追記 2018年にRoutledgeから論文集がでていて、値下げしてたので買いました。ほかも少しずつ調べてみる】

以下、手元の主要著作の議論をざっくり列挙。

ダールは、1956年のA Preface to Democratic Theory (邦訳『民主主義理論の基礎』)、拡大版1991年へ序文を寄せている(元は雑誌掲載)。
今回その序文の気になる箇所を調べてみたのだけど、そこでは、『理論』最終章で、

「私は『通常の』アメリカの政治過程を、国民の中のある活動的で正当な集団がら決定の過程の何らかの重要な段階でみずから効果的な発言ををなしうる高い確率があるもの、と規定した」

と書いたことは、特徴の描写としては大まかに正しいと今でも考えるが、不精確で不十分だとして、続く、一部の読者は完全に無視した一文に注意をむけさせている。

「『発言して納得され〔heard〕』されることは広い範囲の活動に及んでいるし、私にはその言葉を厳密に規定する意図はない。それぞれの集団がその結果にたいして平等な制動力をもっている、という意味ではない」(p.145、内山秀夫訳268頁)

このあとも立憲的ルールへの影響力の不平等の話はつづくが、しかしダールは、『理論』においては人種、教育、情報、社会経済的制度の不平等についてのomissionしたことを後悔していると書いている(拡大版の序文p.xix)。

1982年のDilemmas of Pluralist Democracyでは、最後の章で現代のデモクラシー(ポリアーキー)の欠陥のremedyとして、不平等の問題がとりあげられる。

1985年のA Preface to Economic Democracyで(邦訳『経済デモクラシー序説』)は企業内デモクラシーの可能性などを突っ込んで論じる。のちにこの点は悲観的になり放棄。

1989年のDemocracy and Its Criticsでも最後のパート2章で不平等の問題をあつかう。

不平等の高まりへの憂慮は、その後いっそう深まっていく。
1998年のOn Democracy(邦訳『デモクラシーとは何か』)では、デモクラシーと資本主義(ダールはmarket-capitalismと書く)の敵対的共存関係を論じる。

重要なのは、資本主義は、デモクラシーの発達に有利に働くが、十分に発達し、ある地点をこえるとそれが逆転し、資本主義がデモクラシーを脅かすことを指摘していること。
新世紀のデモクラシーの「性格と質」は、資本主義市場経済との緊張関係に私達がどのような答えをだすかに、「ほぼ全面的に決定されるであろう」としている。
政治的平等と本質的平等の議論、2015年の第2版に付されたシャピロによる序文と第17章も重要。

2001年のインタビュー、02年刊行原著はイタリア語、邦訳『ダール、デモクラシーを語る』。
15章の社会的公正をめぐる、第三の道への批判と富の割り当てについての考察。16章で政治的平等と制度化について。

2006年に刊行のOn Political Equality(邦訳『政治的平等とは何か』)では、山本『現代民主主義』第3章冒頭でも触れられるポート・ヒューロン宣言にも着目しつつ、政治的不平等の転換のためのシチズンシップ文化の可能性を論じている。

【調べもの】エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成立』

【調べもの】では、調べたこと、調べていることを書いていきます。

ここの典拠はこれでした、ここの参照指示は具体的にこんなこと言ってます、翻訳でたので調べてみた、みたいなことをつらつらとメモ。
それなりにコンテクスチャルで前提はしょるので、人によってはおもしろい、役に立つかもです。

本題のまえに愚痴を(内容とも関係あるんだけど)。非常勤先で調べ物したりしてるみなさんそうでしょうが、コロナ禍以降、図書館で調べものするのが非常にやりにくい。

非常勤先の図書館は再開し、いろいろ頑張ってはいるし、感染対策だから仕方ないけども、開館時間と形態は正直なところ使い物にならない。
予約で午前午後3時間ずつぐらい、検索パソコンしか使えずとか。


今年度はオンラインだったし、来年度は対面だとしても、わたしは週1なので、翌週の授業準備したらほとんど使える時間ないわけです。遠いし、普段はわざわざ行ける時間などない。

ロールズとついてるもの、ロールズが参照してる文献もなるべくは収集するけど、高いものやそれ以外は図書館ないととてもやってられないわけです。

職場から近いっちゃ近い、某大学図書館(卒業生)を使えたらよいのですが、卒業生は現在利用停止で残念。これは仕方がない。
使えるのは早くて22年度かな。ここが再開しないとなかなか厳しい。


本題。
2016年に邦訳が刊行された、エリー・アレヴィ『哲学的急進主義の成立』3巻(永井義雄訳)、法政大学出版局、2016年。原著は1901-04に刊行され、1995年に第2
版が刊行。

2019の後半に『正義論』を読み直していたらこの著作への言及をみて、ああそういえば邦訳がでてた、と非常勤先から借りてきたのでした。

最初の緊急事態宣言で自動延長されてたのですが、今回の緊急事態宣言では自動延長されないのでそろそろ返さないといけないので、とりあえず調べてみました。


ロールズは『正義論』第10節「諸制度と形式上の正義」において、「制度を構成するルールと戦略や格率との区別」を論じているのですが、ここでベンサムに言及し、彼の理論についての表現である、「諸利害を人為的に一致させること」という言い回しについて、アレヴィの『哲学的急進主義の成立』第1巻の仏語原著、pp. 20-24を参照するよう指示しています。
そして、スミスの見えざる手についても言及。

で、仏語原著を確認したいのですが、入っている某大図書館が使えるようになるまで調べるのはできない(さっきの愚痴につながる)

なお1928年刊行の英訳がありいくつかの版があります。ロールズも参照していたかも。(プラムナッツが序文をつけた版があり、ロールズはプラムナッツのほかの著作いくつか参照してますし、本書も知ってはいたと推測。プラムナッツはバーリンのあとのチチェレ講座担当者ですが、1975年に急死してしまった&ケンブリッジ学派に隠れて目立たないけどけっこう好きです)

ともあれ、仏語だと第1巻の20頁以降か。じゃあ最初のほうね、と読んでいくとけっこう面白いです。
扉の紹介や永井先生の解説(第3巻)を読むとわかりますが、アレヴィさん、すごい人なんです。
この翻訳の解説は、関東学院大学の紀要を改訂増補したもので、元論文は公開されていますので興味ある方は↓
https://kgulibrary.kanto-gakuin.ac.jp/?page_id=15

そして読み進めていくと、ロールズが参照指示したのは22-31頁あたりかなという感じです。以下のような記述がでてきました。前後の文脈ははしょります。

ベンサムは後に議論をさらにもっと先に進め、そして利己的動機の支配的なことを立証するために、人類の存続を論拠とする。もし各個人が自己の正当な利益を顧みないで隣人の利益を促進することに没頭したら、人類は一瞬たりとも生きながらえることができようか。優れて逆説的性格を示してはいるがそれにもかかわらず世に受けいれられるようになることを約束されているこの命題は、利害の自然的一致の命題と呼ぶことができる」27-28頁

「個人は、大体において、あるいはまったくのところ利己主義者であるといつでも認められるが、それにもかかわらず、利己心の調和が、即座かあるいは徐々かの違いはあれど、否定されることもありうる。だから、諸個人の利害の中で個人の利害と全体の利害とを一致させなければならないと言われるし、またこの一致を実現するのは立法者の仕事であると言われる。そうしてこれは、利害の人為的一致の原理と呼ばれていい」30頁

ベンサムが初めて公益性の原理を採用するのは、この最後の形式においてであり。彼は後に、ときとして利害の融合の原理を使用することがある。彼は後に、政治経済学において、アダム・スミスの思想とともに利害の自然的一致の原理を採用することがある。しかし、彼の理論において有益性の原理がまとう素朴かつ原初の形態は、利害の自然的一致の原理である」30-31頁

『正義論』の当該段落とあわせて読むと、ロールズの叙述が俄然おもしろくなってきます。正直、ここと節全体、これまでは個人的にあまり興味ひかなかったので。なんか説明してんなーと。

あと、それよりもはるかに注目に値すると思うのは「利害の融合」や、それに類似した言い回しがでてくることです
これがconflationにあたるもの、その着想の基かはわかりませんが、そうなら言わずもがな、いろいろわかってきますね。

あとロールズのスミス解釈というか軽視、雑な扱い?(cf. D. D. Rafael, Impartial Spectator)の理由はこの本に由来しているのかもとも思いました。第三章ではスミスとベンサムについて詳しく論じているのでそこからなのかな?とか。
このあたりは後々機会があればさらに調べていきたいと思います。

半端ですがこのへんで。

reasonableの訳語について

きょうは適当な雑感。

先日、ロールズの言葉づかいについて着目した、非常にわかりやすくかつ鋭いネットの論考を読んで、ああこういうのは大事だなあと思った。

先般、機会をいただいて初学者むけの文章を書いたのだけど、いろいろ余裕がなくて、構成もふくめて、言葉の変換というかそういうのが全然できなかったなあと反省しきり。
そういうこともあり、たびたび考えたりするreasonableの訳語について改めて雑にまとめてみる。

reasonableは、ご承知のようにある時期からのロールズにおける頻出ワード。

適理的、道理的というのが使われがちで、字数を気にしなければならない場合はそれでよいですが(想定読者は専門的に学ぶ人だし)、基本的にはやはり「道理にかなった」かなと。
合理的との明確な区別のために「道」をちゃんとつけておきたい。これは個人的にはこだわりポイント。ちゃんと全部やってるか分かんないけど。

reasonableはいろいろなものにつく。

reasonable favorable condition
適度に好都合な条件。
『再説』邦訳ではこれ。内容をみればこれでよい。適度、適当は便利な言葉である。

fact of reasonable pluralism
穏当な、穏やかな、多元性の事実が定着していると思う。

ただ、あまり多元性といってもあまりキツくはないよね~というニュアンスがかなり強くなるとすれば、また初学者にそういう理解を強めるばかりだと、ちとまずい。

包括的ドクトリン、世界観、生き方の違いのなかで、四苦八苦、苦心惨憺、考えて会話して妥協、譲り合いもして、なんとか合意、協働の基盤を見いだして、さらに...とreason(ゴリゴリの意味の理性ではなくて)を駆使してなんとかかんとかやっていける、そういう能力が私たちにはある。
また、終わりそうのない対立や不正義をまえにして諦めなくていい、希望があるんです、とのロールズの思いは著作の端々にみえます 。
初出や、重要なとこは〔 〕で補う...とか? たしか某先生がどこかで書いた文章でそうしたとこあったような。探そう。

あと多元「主義」の「事実」って、言葉として変ですよねと言われた方がいらして、確かにと。ジャーゴンに慣れてはいけないですね。
たしかそのとき「多元状態の事実」とか出た気がしたが、やっぱり基本的にあてる訳後としてはうーんとも。こだわる必要あるかわからないけど、ismついてるし。「事実」はほかに訳しようがあるのかとか。

ともあれ、たんにある状況、環境を描写しているだけではなく、それへの私たちの「かまえ」をも含んだもの。少なくともそう用いているとこは工夫を考える必要。

reasonable citizen, people
市民や人が道理にかなうという言い方は、私の感覚、知っている範囲の日本語ではしないので違和感。

「道理をわきまえた」「分別のある」などを使っている人もいて、なるほど!と思ってたけど、これは完全に好みの問題なんだけど、「わきまえた」「分別がある」が偉そうだし感じ悪いので、何かいいのをその都度充てたいところだけど、いいのはなかなか思いつかない。
まあ、ロールズの議論の文脈はあきらかなので、ロールズ偉そう...と思う人がいる心配はないだろうけども。

他にもありますが、まあよくよく考えなきゃいけないということですね。