UMの雑記帳

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ロールズ研究史②Brian Barry, The Liberal Theory of Justice

今回はブライアン・バリーBrian Barry, The Liberal Theory of Social Justice: A Critical Examination of A Theory of Justice, Oxford University Press, 1973とその著作を紹介。

バリーは1936年生まれ。H. L. A. ハートの指導の下で研究し、論文「政治的議論の言語The Language of Political Argument」により博士号を取得し、それは1965年にPolitical Argument, University of California Pressとして刊行される。

ロールズは『正義論』で直観主義や手続き的正義、人びとの欲求の形成と社会システム、そして目的論との対比における欲望考慮的/理想考慮的原理の区分などについてこちらにたびたび言及している。1967年の論文「社会正義について」の批判を取りこむこともふくめ、『正義論』を執筆するために重要な理論家であった。

バリーは1990年に『政治的議論』を新たな長い序文を付して再刊しており、そこではハートやバーリンからの学びや、1961年からのロックフェラー財団の援助による留学に、当時МITにロールズがいたためにそこを選んだと述べている。ロールズは学期の終わりにはハーバードに移ってしまうが、ロールズの正義論草稿のコピーをもらい読んだことが博士論文の執筆にも影響している。なおロールズによる自身の欲望/理想原理の区分の用い方には異議を唱えており、『正義論』における目的論批判の検討に重要な論点を含んでいる。

代表作というと、Political Argumentと、正義論シリーズとして当初は3巻まで刊行予定だった、Theories of Justice, University of California Press, 1989.Justice as Impartiality, Oxford University Press, 1995.そして、版を重ね論集も編まれたCulture and Equality, Polity , 2001あたりだろうか。そのほか、論文集成であるLiberty and Justice, Democracy and Power(Essays in Political Theory 1, 2), 1991があり、政治学、経済学、社会学等幅広い分野にわたり深い知見をもつことがうかがえる。

残念ながら本の訳はなく、知るかぎりでは「相互性としての正義」(平野仁彦訳)がユージン・カメンカ、イア-スーン・テイ編『正義論』(田中成明・深田三徳監訳)、未來社、1989年に収録。あとアンソニー・クイントン編『政治哲学』(森本哲夫訳)、昭和堂、1985年に「公益」と「正義と公共善」が収録されているのみである。

本書『社会正義のリベラルな理論』は、『正義論』刊行以後に発表した論文も基礎として、ロールズ研究史上彼を主題とした最初期の著作となる。小著ではあるが第1部はもちろん、第2部と第3部(自由の優先権が中心だが)にも論及がなされ、『正義論』「初版」を読むうえで現在でも十分な価値がある。ロールズの自由とその優先権についての批判的検討はさらにその後「平等な自由と自由の真価の不平等」(1975)へと発展していくが、師ハートもまた本書と同年に「ロールズにおける自由とその優先権」を発表しており、相互に影響を与えあっている(本書が成るにあたってもハートは重要な役割をはたしている)。
またロールズが『正義論』を1975年に大幅に改訂するもととなった経済学者らの批判とも重なる、マキシミン規準への批判が注目される。本書へのロールズの反応は著作には見られないが、アーカイヴで何か見つかれば、興味深い資料であるはず。

「気鋭」の若手研究者らしく? ロールズが経済学をはじめ各社会科学分野を応用している仕方に鋭い批判(連鎖的つながり、緊密な接合はもはや「生きた化石」にすぎないなど)を加えつつも、『正義論』がもつ意義を次のように述べている。

ロールズは私的所有権と生産手段、分配、交換の結びつきについてリベラリズムの教説の本質的な要素とみるのではなく、偶然的なものとして、リベラリズムの本質的な諸特徴とは切り離したのである。そして、分配の原理を導入して、リベラリズムは適切に解釈され、特定の現実的仮定を置くならば、平等主義的含意をもち得ると示したのである(166)。

その平等主義的含意はいまはいわば常識のことではあるが、だからこそ、当時ロールズに見いだされた新しさとラディカルさは軽くみられるべきではない。近年の財産所有のデモクラシーへの注目や、reticent socialist(エドマンドソン)としてのロールズの読解のようにいま再びその平等主義的含意が限界とともに問いなおされている。