UMの雑記帳

勉強日記とロールズとか政治学とか

ロールズ研究史③Steven Lukes, Individualism.

Steven Lukes, Individualism, Harper and Row, 1973. 邦訳『個人主義』(間宏監訳)、御茶の水書房、1981年。


ティーブン・ルークス(1941~)は、オックスフォード大学においてデュルケーム研究で博士号を取得後、ベイリオル・カレッジで講師をつとめる。その後ヨーロピアン・ユニバーシティ・インスティテュート、シエナ大学教授、ニューヨーク大学教授を歴任し、本年5月に退任したばかりである(その際のzoomイベントhttps://as.nyu.edu/content/nyu-as/as/departments/sociology.html

また初版が1974年、第2版が2005年に刊行された『権力』の第3版も本年刊行され、依然健在。邦訳されているのは個人主義、権力論、政治理論にかんするものがある。

 

個人主義』(間宏監訳)、1981年。本書のもととなる論文、「方法論的個人主義の再検討」、D. エメット・A. マッキンタイア編『社会学理論と哲学的分析』弘文堂、1976年、「個人主義の諸類型」、S. ルークス・J. プラムナッツ『個人主義自由主義』(田中治男訳)平凡社、1987年(『西洋思想大事典』からの再収録)がある。

 

『権力と権威』(伊藤公雄訳)アカデミア出版会、1989年。※『社会学的分析の歴史』シリーズの邦訳。原文は下記のMoral Conflict…に収録

『現代権力論批判』(中島吉弘訳)、未來社、1995年。原著1974年、第1版の訳。政治学では一番有名な本だろうか。先ほど触れたように第3版出たのでアップデートしてほしい。彼の権力論についてはダール『現代政治分析』第3章、杉田敦『権力論』などを参照。

 

マルクス主義者は人権を信奉できるか」(中島吉弘訳)、『長野大学紀要』15(4)、1994年。※原文は下記のMoral Conflict…に収録。1985年にはMarxism nd Moralityという著作も刊行している。

「人権についての五つの寓話」、ジョン・ロールズほか『人権について——オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(中島吉弘・松田まゆみ訳)、みすず書房、1998年。※原文は本書原著と下記のLiberals…にも収録。

『カリタ教授の奇妙なユートピア冒険』(近藤隆文訳)、NHK出版、1996年。「五つの寓話」の小説版のような位置づけ? 小説形式で、個人的にはちょっと苦手だが積読を今回書くためにようやく消化。

 

そのほか論考の集成である、

Essays in Social Theory, The Macmillan Press, 1977.

Moral Conflict and Politics, Oxford University Press, 1991.

Liberals and Cannibals, Verso, 2003.

などがある(これでも一部)。

 

ルークスは次第に政治・法理論にも手を伸ばしていくが、それには同僚のジョセフ・ラズをはじめとしてG. A. コーエンなどオックスフォードの環境があった。価値の多元性、多元主義相対主義と峻別しつつ擁護するとともに、より平等な社会、世界の可能性を追求する姿勢は、「権力論」の側面が有名な彼のより知られるべきところであると思う。


ルークスは、『個人主義』(原著1973)において、抽象的個人主義に対する批判を展開している。ルークスの定義ではそれは、

 

「抽象的な個人の観念にとって決定的に重要な点は、社会的諸制度が(現実的にも理想的にも)充足しようとする目的を決定する個人のこの特性が、本能、能力、要求、欲望、権利などどのように呼ばれていようとも、社会的な文脈から独立した所与のものとかんがえられていることにある。人間の固定した、普遍の心理学的特性のもつことの所与性は、個人の抽象的観念に帰着する。そこでは、個人はその行動を決定しまたその利害、要求、権利を特定する、心理学的特性の担い手とみなされるにすぎない」原著p.73、邦訳109頁

 

ルークスは、ロールズが上記のような抽象的個人主義であるとしている。

「この観念は、社会契約論的な形式の議論(今日、ジョン・ロールズの著作において再生している)や一般に、自然状態における人間観にもとづく社会についての議論と密接に関連していた。もっともこの観念は、初期の功利主義者や古典派経済学者らにおいては別の形態——人間一般についての抽象的観念——で見出し得るものであるが。言うまでもなく、ここに含まれている(前社会的、超社会的あるいは非社会的)「個人」は――自然人、功利的個人、経済人であれ――よく検討してみれば、つねに社会的存在であり、まさしく歴史的に特定の存在であることは明らかである。「人間本性」とはつねに特定の社会的人間の種類に他ならない」原著p. 72-3、邦訳111頁。

 

「自立的で合理的な市民は、古典的な自由主義的民主主義理論の一つの中心的前提である。契約論的であれ功利主義論的であれ、とりわけ18・19世紀の理論においてそうであった。どちらも現在再生の過程にあり、それぞれ、ジョン・ロールズ、アンソニー・ダウンズの著作のなかにあらわれている。(脚注)興味深いことに、ロールズは「無知のヴェールの後ろで」正義の原理を決定する合理的な人間は、自分の将来の嗜好や欲求を知らず、これらのことは彼の理論によって前もって決定されるものではないと主張している。しかし私の意見を言うと、ロールズ的人間には特定の幅をもった近代的な自由主義的信条と欲求が組み込まれているということはかなり容易にしめされよう」原著p. 72、邦訳202頁。

 

ルークスは書評(“No Archimedean Point”, Observer(4 June 1972) reprinted in Essays in Social Theory, The Macmillan Press.)においても、ロールズの正義論に同様の見解を示している。その批判は『正義論』、そして自由主義リベラリズムに対してなされる典型的な批判の一つを示しているといえる。

 

ロールズは、『正義論』初版の刊行後の数年間、多くの批判に応答し、説明の改訂を試みる論文を発表するが、その一つが「個人主義」批判への応答であった。論文「善性への公正」Fairness to Goodness(1975)においてロールズは、原初状態と基本財に対する批判に応えるなかで、ルークスの言うような抽象的個人主義ではないと反論している。『正義論』第79節を示しつつ、秩序だった社会の個人が現存の社会制度と正義の原理が充たす。また諸自由、諸機会、所得と富といった基本財の説明も、原初状態における当事者のもちうる知識も、「社会理論や常識」が長らく認識してきたことを否定するものではないとしている。

 

ルークスが「個人主義」を批判するのは、その否定のためではなく現代における平等と自由との問題に関連して、それが誤った形で理解されているとみなされていると考えるからである。ここで言う平等と自由とは、人間の尊厳や自律、プライバシー、自己発達などをさす。ルークスのみるところ、個人主義の核心的諸価値であるこれらのものは、既存の個人主義的諸学説と必然的つながりをもたないものである。ある学説あるいは人間観を採ることが、「社会と社会関係の特定の見解をイデオロギー的に正当化することにつながり、また他の見方の暗黙の否定につながる」、その問題性を彼は指摘している。抽象的個人観は、歴史上、進歩的なものであり、平等と自由との進展に寄与してきたが、それらを「真剣に考える」のであれば、「方法論的」個人主義個人主義の諸価値の関連を俎上に挙げるべきと考えている。

 

「もし平等を増大させること、あるいは社会化の諸機関のより深い影響(たとえば言語や知覚を通じての影響)の関心があれば、またもし社会のあらゆる領域での自律性と自己発達を極大化することに関心があれば、地位の格付けの構造的な決定要因を綿密に調べる必要があろう。このようにして、社会学および社会心理学的な探求は平等主義的あるいは自由主義的な社会変動にとって欠くことのできない必要条件である」(第20章)

 

ルークスの方法は無論ロールズと大きく異なるものであるが、その目指すところにさほど懸隔があるようには思われない(ルークスは「人間的な形態の社会主義」をその展望の方向性として論を閉じている)。その後、ルークスがロールズリベラリズムについてまとまった議論を展開しているのか、全著作を調べたわけではないので現時点ではわからない。その後の言及は数多いが、ロールズが価値の多元性を真正面から受けとめ、その政治哲学を展開していること、それが現代の前提であることに基本的には賛意を示しているように読める(Moral Conflict…、Liberals and Cannibals所収の諸論文。なおこの点についてバーリンとの会話(活字化されている)の中でやはり否定的なロールズ評があるようで気になるところ)

 

「人権をめぐる五つの寓話」では、理念型として、功利国(ユーティリタリア)、共同国(コミュニタリア)、無産国(プロレタリア)、自由国(リバタリア)、そして平等国(イガリタリア)という諸社会を比較している。平等国では、人権が真剣に受け止められ、人びとは不正義への感覚から、不平等や差別、最低限の生活条件の向上を追求している。しかし、その達成可能性と維持可能性は、「自由尊重主義的な制約」により経済、市場の方向から、また「共同体主義的な拘束」により、文化的領域から脅かされる。ここで後者について、ルークスは、ロールズの試みを「自分自身をはじめ、誰に対しても公平な見方ができるようになる」モデル化の方法として言及している。しかし、現実における平等国の人々のような考え方の困難さをまえに、ルークスが採るのは消極的なものである。それは、意見の一致が確保しうる、「基本的な市民的・政治的権利、法の支配、表現と結社の自由、機会の平等、ある程度の基礎的水準の物質的福利を享受する権利」という人権のリストを擁護することである。しかしこれらについても、その具体化、実現方法となると意見の不一致が表面化する。ルークスは、そうした政治的対立、議論が可能となる「平等主義のプラトー(高原状態)」を擁護すべきであり、「たとえ人権擁護の原理が、私たちにこれ以上平等国に近づく手助けをしてくれないとしても」、他の四つの社会との支持と引き換えにそのプラトーを放棄してはならない「強力な」理由が存在するとしている。ルークスの議論は、ユーゴの解体とその後の凄惨な紛争を背景としての擁護論であるが、現在においては、むしろすでに何らかの「プラトー」を維持してきた平等国が、実のところ自由国、功利国などほかの社会の側面を強めてきたのではないかという観点から読めれるべき価値があるように思われる。